ツァイト・フォト・サロン, 東京, 2005

ツァイト・フォト・サロン, 東京, 2005

Aki Lumi “the garden”, “trace”, “mechanics”.

空間はすなわち時間である。バラードの言い方を借りれば、バロックの入り組んだフラクタル形には<時間>それ自体が内包されているのだ。機械の入り組み、思考の入り組み、熱帯雨林の入り組みにはバロック的な時間と空間のシステムが埋め込まれている。


the garden“とは、つまりこのわたしが作った疑似宇宙=庭園のことを指す。この箱庭はジャングルのように見える。それはジャングル的要素をもつ様々なエレメントで構成されているためだ。数百のフォト・レイヤーで構成された疑似熱帯雨林=エデン。高密度なエコ・システムであるジャングルはどれほど雑多に見えようとも、究極的には秩序だったフラクタルな様相をもっている。数ミリのコケや雑草は数10メートルの大樹と同じ形をしており、そこではスケールは意味をもたない。ジャングルとは、都市における人間生活と同様に寄生植物から昆虫、バクテリアにいたるすべてが関係しあっているコスモスだ。さらに、生物はそれ自体が巨大な情報の集積体であって、生物活動とはすなわち情報のやりとりなのである。当然ながら、自然物であっても人工物であっても、それらをわたしたちが「観察する」限り同じ構造をもったコスモスとなるのだ。


trace“のドローイングは近視的、微視的な手段で描かれている。つまり設計図のように定規とコンパスを使い、机の上に広げられた紙に注意深く線を引く。ここでの細い線の一つ一つの単位は全体における部分なのではない。その線は結果的に何かを表象させるものではないし、また抽象なのでもない。天地左右に意味はなく、全体を見る、あるいは近寄って部分を見るということにも差異はない。CPUの設計図、石油プラントのシステム図、インテリジェント・ビルの管理システム、都市の様々な機能を表す図面や都市自身の俯瞰図、ネットワークの概念図なども同じフラクタルな様相を持っている。さらに生物進化論、数的合理性から導かれた現代の宇宙論まで、それらすべて人間によって「発明」されたものは同一の世界像を表しているのだ。そのコスモスをどのように作り上げてきたのか。認識と思考形式の複写は可能なのだろうか。


mecanics“はロケットや航空機のエンジンルームの内部写真を身体解剖図のように丁寧に色分け、色付けしたものだ。装飾的にも見える複雑で重たい、光る金属のオブジェはその見かけとは逆に、重力に逆らって人間の飛行を可能にする機械なのである。ビス一本に至まですべての細部が重要な役目を担っている限界のシステム。わたしたちの世界が密度高く詰め込まれている機械。現在の都市生活もこのような機械的なもので囲まれている。地下街の床板一枚剥がせば、これらの機械がまるで都市の内臓のように現れるのは承知のとおりだろう。この機械群の写真は我々が身体の内部を凝視するのが苦手なように、本来露出すべきものではないのかもしれない。しかし、都市がそうであるように、この高密度の機械の彩色された構造を見れば、そこにもはっきりと「世界の作り方」が表出しているのは明らかだ。

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